陳炯明
プロフィール
出生: 1878年1月13日
(清光緒3年12月11日)
死去: 1933年(民国22年)9月22日
イギリス領香港
出身地: 清国広東省恵州府海豊県
職業: 政治家・軍人
各種表記
繁体字: 陳炯明
簡体字: 陈炯明
ピン音: Chén Jiŏngmíng
和名表記: ちん けいめい
発音転記: チェン ジョンミン
ラテン字: Ch'en Chiung-ming
表・話・編・歴
陳 炯明(ちん けいめい)は、中華民国の政治家・軍人。広東派の指導者である。
人物 [編集]
清末に広東法政学堂を卒業後、1909年に広東省諮議局議員に当選し、広東省自治に携わった。一方で同年に中国同盟会に参加したと言われ、1911年の黄花崗起義及び辛亥革命に参加した。辛亥革命後は胡漢民らと広東省統治に関わったが第二革命で袁世凱と対立したため香港に逃れた。1914年に孫文が結成した中華革命党には参加せず、黄興を支持する欧事研究会に加わっている。1917年の護法戦争の際に孫文らと共に広東に戻り、広東軍政府に参加。当時広東を支配していた広西派軍閥との角逐の末、1920年11月に広東省を掌握。孫文の広東省における勢力基盤を軍事面から援助した。
1922年6月、第二次護法戦争の際、孫文と陳炯明は意見の相違から、陳は孫文の北伐に反対し、聯省自治(zh)を主張した。さらにこの時、孫と陳の調停を懸命に図っていた鄧鏗が暗殺され、ついに両者の決裂は不可避となる。1922年6月16日、陳の部下の葉挙が出兵し総統府を攻撃、合わせて孫文の住居を砲撃したため、孫文は中山艦に乗り、広東省から離れた(六・一六事変(zh))。1923年1月、陳は、孫文と雲南派、新広西派連合を糾合した軍隊に破れ、東江(zh)に退却した。1925年国民革命軍の2度にわたる攻撃を受け、香港に逃亡し、中国致公党を結成し、総理に任命された。その後、継続して中国の統一と富強化に奔走したが、1933年香港で病没した。
評価 [編集]
陳は、広東政府にいるときに、聯省自治による中国の統一を模索していたが、中国国民党、中国共産党双方ともに軍閥勢力が群居していた当時の中華民国の状況では実現が困難と判断していた。また、一方で、中国連邦憲政の実践者と評価する意見もある。
広東における影響は以下の通りである。
政治面では、孫文の北伐に反対し、「聯省自治」を主張した。広州市における立法、行政、財政、監査等の機構を設立し、自治の基盤を作り、兵を鍛える一方、政治を簡素化し(精兵簡政)、民衆に休息を与えた。
経済面では、民間企業を支援し、道路を建設した。
教育面では、私立学校を建設し、全国で最も発展した公教育を提供し、教育における費用を免除し、陳独秀に省教育長になってくれるよう要請した。
社会生活面では、旧習・陋俗を排除し、煙草や賭博を禁止した。しかし、その効果ははっきりとしていない。
外部リンク [編集]
いずれも中国語
陳炯明研究中心
葉曙明:1922年の陈炯明と孫中山
中華民国(北京政府)
先代:
胡漢民
広東都督(就任せず)
1913年6月 - 7月
次代:
竜済光
先代:
譚浩明(広西督軍)
広西善後督弁(就任せず)
1921年10月 - 1922年5月
次代:
劉震寰(綏靖処督弁)
中華民国軍政府
先代:
岑春煊
内務部長
1921年5月 - 1922年6月
次代:
(廃止)
先代:
莫栄新
陸軍部長
1921年5月 - 1922年6月
次代:
(廃止)
先代:
莫栄新(広東督軍)
粤軍総司令
1920年11月 - 1923年1月
次代:
沈鴻英(広東督理)
許崇智(粤軍総司令)
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