タイの粵人 / 泰國粵僑
タイの粵人は、タイ国内に住み、タイ国籍を持つ中国系住民である。
目次
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1 概要
2 歴史
2.1 スコータイ時代
2.2 アユタヤ時代
2.3 トンブリー時代
2.4 チャックリー時代
3 注脚
4 参考文献
5 関連記事
概要 [編集]
中国系といっても、タイ国内においては混血が激しいため、極端な意見ではタイ人で華人の血が流れていない人を捜すのが難しいとも言われる。混乱を避けるためここでは、「統計上に上り、華人を自称するタイ国籍保有者」を扱う。
なお、タイ北部には陸伝いで渡来しイスラーム化したホー族と言われる華人がいるが、ホー族は北部少数民族として扱われることが多いため、この項ではあまりふれないこととする。またに、同タイ北部には、中国の共産化によって難民として移り住んだ「国民党(クオミンタン)」と呼ばれる華人が存在するが、これもここではカウントしない。
タイ華人の形質としては、華南地方の中国人の血を引いているので、目は大きく、鼻が低く、華北地方の中国人と比べて、彫りが深いとされるが、タイ人ほどではない。肌は一般に土着のタイ人より白いが、ある程度形質の変化が進み多少は黒くなっている場合もあり、あるいは元々黒い肌の中国系もいる。当然ながらこれらは個人差があり、一様に言うことはできない。
タイの華人は、同化の傾向が大きく、タイ人であると言う意識の方が強いといわれ、中国人に対してもあまり目立った友好を示すわけではない[1]。また、華人が3世代目、4世代目などになると、ほとんどタイ語を話すようになり、中国語ができたとしてもほとんど祖父母と会話する際のみ、などの状況が生じている。これらのことから、タイにおける華人はタイにおおむね同化して来ていると言える[2]。
歴史 [編集]
スコータイ時代 [編集]
タイでは古くスコータイ王朝以前から、華人の商人が渡来していたという。中には焼き物技術を持ち込んで、スワンカロークで宋胡禄を14世紀に開発したものもいる。ただし、宋胡禄に見られる中国風の様式は15世紀初頭になくなったため、スワンカロークに移り住んだ中国人陶器工は徐々に同化したものと見られている。なお宋胡禄は戦国時代に日本に盛んに輸出され日本の茶人に愛用された。
アユタヤ時代 [編集]
アユタヤ王朝時代にも華人の商人が渡来していた。アユタヤは頻繁に朝貢を行っていた。また1405年から33年にかけての鄭和の遠征では、鄭和自身がタイを訪れた形跡はないが、部下の馬歓らがタイを訪れた記録が残っている。これらの結果、タイでは中国人が移り住み、子孫ができたと考えられている。
スコータイの没落にともないアユタヤが勢力を拡大すると、中国人の存在もアユタヤ・中国両国の文献に出てくるようになり、中国の文献にもタイで官吏となった中国人の存在が出てくる。また、パタニ王国では中国人官僚林道乾がイスラム君主の元、権力を握りほとんど無税で貿易が行えた記録などもなども残っている。
一方、17世紀初頭から台頭し始めた日本人町の日本人勢力は、徐々に対外貿易額を伸ばし中国人商人の勢力を脅かした。しかし、1627年王位についたアユタヤ王プラーサートトーンは勢力の大きくなった日本人町を焼き討ちし、対外貿易を王室の専売特許とした。これは、実際の貿易業務は中国人に王室から委託されたことと、最大の貿易相手国であった日本は、鎖国後も中国船との貿易は認めていたことから、中国人にとってはプラスに作用した。
またナーラーイ王(1657 - 88)の時代、オランダと中国が互いにしのぎを削るようになると、オランダは1663年に中国人と一悶着を起こし、それが元で、1664年オランダはアユタヤ政府に一方的に条約を迫るが失敗。オランダはアユタヤにおける貿易から姿を消した。また、変わってフランス背力がタイでの貿易に手を出そうとするが、ナーラーイの死にともない、アユタヤ王朝は白人国家に対して鎖国を行った。結局これらは中国人の貿易商に大きく利益するものとなった。
さらに、1645年の清朝の華南征服は、中国人へのタイへの入植を促した。この傾向は18世紀頃まで続く。このため、清朝はタイとの交易を事実上禁止することもあった。しかし、雍正帝は朝貢貿易を認める政策に転換。タイは低額な関税で米を盛んに輸出した。
17世紀に福建系の華人がタイランド湾の利権を握ると、華南からの移民が増えた。タイ華人は華南からということになったのも、この時からである。中には官位を持つものがあり、華人であるトンブリー王朝のタークシン王もアユタヤー時代には、ターク県の知事をしていた。
トンブリー時代 [編集]
アユタヤー王朝がビルマによって破壊されたあと、潮州人のタークシン(中国名:鄭昭)が新たにトンブリーにトンブリー王朝を建てた。トンブリーに遷都した理由としては、アユタヤがすでに崩壊していたこと、トンブリー地区に潮州人コミュニティーがあったと思われることが理由としてあげられる。タークシンはこれ以降、華人のタイ国内での商売が奨励され、タークシン両親の故郷である潮州を中心とする地域から大量の華人がタイ国内に流れ込んだ。
チャックリー時代 [編集]
この後チャックリー王朝が成立し、ラーマ1世が即位した。この王朝は国内ではアユタヤー王家の末裔を強調したため、 華人的側面がタークシン王よりも弱かったが、清朝政府に対しては、タークシンと同じ「鄭」姓を名乗り、朝貢貿易を行った。国内でもタークシンに引き続き、華人商人の奨励がなされた。しかし、ラーマ5世時代1910年に人頭税が上げられると、華人がゼネストを起こした事件がおこり、華人の権利の巨大化が表面化したため、この事件の数ヶ月後即位したラーマ6世により、『東洋のユダヤ人』という論文が著され、華人が批判された。一方では、華人の帰化を奨励し、タイで生まれた華人に自動的にタイ国籍を与える属地主義を導入した。これにより華人が徐々にタイに同化した。また戦後中華人民共和国が成立すると、華人の本国とのつながりは薄れ、さらに同化が促進された。
注脚 [編集]
^ ソンブーン・スクサムラン「華人 変わりゆく伝統」村上忠義訳、pp.180-193『暮らしが分かる アジア読本 タイ』小野澤正喜編 河出書房出版社、1994年 ISBN 4-309-72444-2 この他、ピブーンやルワン・ウィチットが華人でありながら、華人を批判したことにも注目。
^ ソンブーン・スクサムラン「華人 変わりゆく伝統」村上忠義訳、pp.180-193『暮らしが分かる アジア読本 タイ』小野澤正喜編 河出書房出版社
参考文献 [編集]
ウィリアム・スキナー著『東南アジアの華僑社会』山本一訳、東洋書店、1988年二版 ISBN 4-88595-032-5
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF% ... F%E4%BA%BA--------------------
ヤワラー通り
座標: 北緯13度44分28秒 東経100度30分30秒 / 北緯13.741136度 東経100.508305度
夜のヤワラー
ヤワラー通り(Yaowarat Road)またはヤワラート通りは、タイのバンコク・サムパッタウォン区にある道路。フワランポーン駅の西側に広がるチャイナタウンを代表する通りで、逆にチャイナタウン地区のことをヤワラー地区とも言う。
金細工を売る金行と呼ばれる店や、ツバメの巣やフカヒレなどの珍料理を出すレストランが軒を連ねている。
また、カオサン通りが開発されるまでは安宿街として有名であった。
接続する主な道路 [編集]
ラーマ4世通り
ジャルンクルン通り
最寄り駅・路線 [編集]
フワランポーン駅(バンコク・メトロ)
市バス:1,4,7,21,25,40,73,507,529番
周辺にある施設や目印 [編集]
ワット・トライミット
7月22日ロータリー
中華門
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