黄現璠
プロフィール
出生: 1899年11月13日
死去: 1982年1月18日
中華人民共和国広西チワン族自治区桂林市
出身地: 清国広西省南寧府新寧州六都渠思村
職業: 学者
各種表記
繁体字: 黄現璠
簡体字: 黄现璠
ピン音: Huáng Xiànfán
通用ピン音: Huáng Hsiènfán
注音符号: ㄏㄨㄤˊ ㄒ|ㄢˋ ㄈㄢˊ
和名表記: こう げんはん
発音転記: フアン シェンファン
ラテン字: Huang Hsien-fan
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黄 現璠(こう げんはん)は中華民国、中華人民共和国の歴史学者、民族学者。学問は史学、民俗学、人類学、言語学、文化学、チワン学と多岐に渡る。中国チワン族(壮族)史学とチワン学の創立者、中国現代民族学研究の先駆者の1人とされ、中国壮学(チワン族研究)の第一人者として知られ、八桂学派と無奴学派の創始者。本名は甘錦英。チワン族。
目次
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1 略歴
2 少数民族調査の経歴
2.1 1940年代
2.2 1950年代
2.3 1970年代
2.4 1980年代
3 学問・特徴・評価
4 主要な著述と出版物
4.1 通史
4.2 断代史
4.3 近代史
4.4 専門史
4.5 学術論文集
4.6 学術評伝
5 一族
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク
略歴 [編集]
黄現璠は中国清朝南寧府新寧州六都渠思村(現在の広西チワン族自治区崇左市扶綏県渠旧鎮三合村渠思屯)の農民の家に生まれる。幼少時に家塾で学び、後に広西第三師範高等学校を経て、1926年(民国15年)に国立北京師範大学に入学し、陳垣、銭玄同などの史学、訓詁についての考証学を修め、1932年(民国21年)に極めて成績優秀で卒業後、大学院に入学した。大学院在学中の1932-35年に、北京師範大学研究所(のちの北京師範大学研究院)導師銭玄同の勧めにより、北京師範大学研究所に兼職し、史料編纂員となった。
1935年(民国24年)に、広西省の援助官費を得て、日本に渡り、東京帝国大学文学部大学院の東洋史学研究科に留学し、大学院では東洋史を専攻し、池内宏、加藤繁、和田清などの指導を受け、東京文献学派のメンバーとなった。[1]留学期間に、日本学者白鳥庫吉、津田左右吉、原田淑人、後藤朝太郎と中国学者郭沫若などの名人と知り合った。
1937年(民国26年)に盧溝橋事件で帰国、翌年に国立広西大学の招聘を受け、史学講師となり、中国通史を教え、1940年に助教授となり、中国上古史を教え、1941年(民国30年)に広州の国立中山大学史学教授となり、中国漢・唐・宋史(後三代史)を教えた。1942年(民国31年)に国立桂林師範学院歴史地理学部教授となり、并せて広西教育研究所の研究員を兼任した。1943年(民国32年)に再度国立広西大学で教鞭を執り、主として魏・晋(西晋、東晋)・南北朝時代史、隋・唐・五代十国時代史、中国文化史、中日文化交流史などの課程を講義し、并せて中国社会生活史、民俗学および少数民族の調査、資料蒐集と研究発表を行なった。後に、広西大学の训導長、中国語の学部主任、大学の図書館長などの職を兼任した。
1949年に中華人民共和国期に入って、1954年以後、黄現璠が広西師範学院(後に広西師範大学に改名)歴史地理学部教授となり、学院の図書館長を兼任し、長い間に、中国通史、先秦史(三代)、中国歴史文献などの課程を講義した。同時に、第1期全人代広西省代表、全人代民族委員会委員、中央対外文化連絡委員会委員、第1期中国人民対外文化協会(後に中国人民対外友好協会に改名)理事、[2]広西省人民委員会委員、広西チワン族自治区政府委員などの職を務めた。
1957年7月に、黄現璠が青島で開催された「全国民族工作座談会」(この会議では、周恩来による基調講演で、会議に出席した105の代表がすべて全人代民族委員会のメンバーである)に出席した。反右派闘争期間の同年10月15日に、中国共産党中央は「右派分子を決める基準」通知を出し、1958年2月1日に、第1期全人代第5回の会議は、「費孝通、黄現璠、欧百川の全人代民族委員会委員職務を免し」という議会決議を作り出し、[3]それによって、彼が中国歴史学界の1番で大きい右派分子とされ失脚し、広西師範学院図書館の管理員となった。まだ彼が文化大革命の期間にも、紅衛兵の攻撃対象とされ、迫害を受けた。
1979年に、黄現璠が右派の名誉を回復され後、第5期中国人民政治協商会議全国委員会委員、第1期「中国民族学研究会」(後に中国民族学学会に改名)顧問、[4]中国大百科全書・民族編集委員会委員、第1期「中国西南民族研究学会」顧問、第1-2期「中国百越民族史研究会」副会长を務めた。1981年に、桂林に民営「漓江大学」を創設し、校長を担当した。このために、黄現璠は中国教育界に中国現代的民間大学創設の先駆者のひとりと見なされた。1982年1月18日に脳溢血のため桂林の病院で死去。享年83。翌月に、黄現璠の葬儀が広西チワン族自治区政府によって、「広西人民公墓」で行われた。1999年11月に、広西師範大学は「黄現璠教授生誕百年記念座談会」を催し、会後に「黄現璠教授生誕百年記念文集」を出版した。現在には、広西師範大学で「黄現璠少数民族奨学金」を、桂林中学(高校)で「黄現璠奨学金」をそれぞれに設立した。
少数民族調査の経歴 [編集]
1940年代 [編集]
黄現璠は1943年から長い時期に情は熱く少数民族調査活動に従事した。彼が英語、日本語、チワン語、ヤオ語、トン語に精通するため、少数民族のフィールド調査に便宜を提供し、そこで実り多い成果を得た。1943年8月に、黄現璠は「黔桂(貴州省と広西省)少数民族辺区調査団」を組織し、団長を担当、1945年4月に、「黔南(貴州南部)少数民族辺区調査団」を組織し、団長を担当、その年9月に、助手と一緒に、貴州省融県ミャオ族の山岳地帯に入って、学術考察を行い、何度も団員に連れて、黔桂の2省の少数民族山岳地帯の奥深くに入って、広範な学術の調査の活動を展開し、数々の貴重な歴史資料を獲得した。このために、彼が中国における少数民族フィールド調査の先駆者のひとりと見なされた。
1950年代 [編集]
1951年6月に、黄現璠は「中央民族訪問団中南訪問団広西分団」(1分団、団長費孝通)に参加し、副団長を担当、広西少数民族の地区に入って慰問と調査を行い、1952年3月に、助手と一緒に、広西省の都安県、東蘭県、南丹県のヤオ族、チワン族の歴史文化と現状の生活を調査し、同年8月に、広西省の扶綏県、崇左県、徳保県、靖西県に入って、フィールド調査に従事し、土司および宋代チワン族英雄儂智高と清代チワン族英雄呉凌雲、呉亜忠父子武装蜂起に関する歴史資料を収集した。1953年6月に,彼は広西大学で「桂西チワン族自治区人民政府文化教育局歴史文化財調査工作組」を組織し、組長を務め、調査グループの成員と一緒に、広西省の鳳山県、南丹県、天峨県、河池県、羅城モーラオ族自治県、忻城県などの少数民族居住地に入って、ヤオ族、マオナン族、ミャオ族、チワン族、ムーラオ族などの少数民族を訪問と調査し、数々の文化財と歴史資料を収集した。1954年3月に,彼は広西省の貴県に入って、貴県でのチワン族の分布および清代チワン族英雄黄鼎鳳武装蜂起と太平天国武装蜂起に関する歴史資料を収集した。1956年4月,彼は広西省の武鳴県、上林県、賓陽県、貴県、来賓県入って、貴県のチワン族の分布、清代チワン族英雄黄鼎鳳武装蜂起、清代チワン族英雄李錦貴武装蜂起および太平天国武装蜂起に関する歴史資料を収集した。1956年8月に、彼は「広西少数民族社会歴史調査グループ」を創立することに参与し、そのグループの副組長兼チワン族グループの組長、実際は全組の学術の調査の仕事に責任を負って、グループを率いて桂西チワン族自治州が管轄した5つの専区、2つの市、52の県、1つの自治区など少数民族の地区に入って、広西の少数民族歴史と伝統文化に対して、有史以来初めての系統的、全面的かつ大規模な調査を行い、歴史資料を収集し、多くの貴重な歴史資料を手に入れた。このすべてはチワン族の社会歴史文化の全方位の深く研究ために基礎を打ち立てたこと、広西民族研究所の創立とチワン学の研究と発展に条件を創造した。まさに梁黎がいったとおり、中華人民共和国成立後の民族識別工作の3段階中で、費孝通、黄現璠、夏康農など20世紀の中国人類学と民族学における著名な学者および民族研究に従事する学者が傑出している貢献を作り出した。まさに全国の民族識別工作の成果を基づいて、国務院が中国を55の少数民族を共有し、漢族を足して全部で56の民族を公表した。科学研究と民族の自らの意志の原則を通じて、民族成分を決定し、中国の民族研究の仕事をする初めての試みになって、同時に国際民族学界の広範な注意を引き起こし、とても高い評価を得た。」[5]「これは中国民族学者らが黄現璠を中国現代民族学研究の創立者のひとりと見なされた1つの原因であっる。」[6]
1970年代 [編集]
1978年7月に、黄現璠は助手と一緒に、広西チワン族自治区の竜州県、憑祥県、寧明県、崇左県など地域に入って、1979年11月にも,助手と一緒に、広西チワン族自治区の百色市、田陽県、田東県、巴馬ヤオ族自治県、都安ヤオ族自治県など地域に入って、チワン族の寧明花山壁画と銅鼓に関する学術考察を行った。
1980年代 [編集]
1981年 3月に、黄現璠は助手と一緒に、四川省の宜賓地区に着いて少数民族の懸棺葬を考察した。
学問・特徴・評価 [編集]
黄現璠の学問は史料に基づく実証的なものであった。陳吉生教授が語るところによると、黄現璠は、史料を広く集めて精選し、それより確実かつ穏当な結論を導くという、歴史研究の正道というべき手法を用いた。[7]その上、黄現璠の学問研究はとても勤勉で、討論に熱中し、まさに陶希聖教授がいったとおり、「黄現璠先生は北京師範大学研究院で陳垣先生の指導を受けて苦学大学院生であった。」[8]「民国の30年代に、私は北京師範大学史学部で中国社会史課程を講義し、この時、常に私と学問を討論した1人が当本の著者黄現璠であった。」[9]研究方法の上、黄現璠は王国維の「二重証拠法」を突破し、「黄氏三重証拠法」を創立した。つまり、これは考古資料(実物と文字)、歴史文献、民族学の調査資料(実物文化財、口述資料)の三重証拠を結合し、それによって中国古代史と文化を研究する新しい歴史研究法である。
黄現璠の論著は大部分が開拓性を持ち、革新性となった論著は少なくなく、例えば彼の最初の論著『中国通史綱要』が(上・中・下巻 )1932-1934年に出版され、中国人による「中国通史」の名前を付ける最初の歴史論著である。[10]
1936年3月に出版された黄現璠の『唐代社会概略』(商務印書館、1937年2月に再版)は、中国人による最初の唐代社会史研究に関する専門論著であった。その評価について、山東大学歴史文化学院の劉玉峰教授が語るところによると、「黄現璠の『唐代社会概略』は、唐代社会史研究に関する最初の専門論著であった。」[11]台湾仏陀大学の元学長龚鵬程教授(北京大学、北京師範大学の客員教授を兼ね)が語るところによると、「20世紀30年代に黄現璠の『唐代社会概略』は、最初に階級の1章を出して、賎民、娼妓、労働、貴族、座食(僧侶を指し)などの階級を議論し、その後、このように中国社会の中の身分等級に関して、きわめて多いことを討論された。」[12]中国芸術研究院の项陽研究員が語るところによると、「前で述べたように、制度は音楽の文化の形成と発展に対して、かなり重要な影響を持って、みんなはもしこの点を認めることができるならば、私達の研究に1種の新しい視角、新しい構想を提供した。中国の音楽史研究を振りかえって、このような方法はたくさんの学者が局部の運用で、日本学者岸辺成雄が唐代音楽史に関する研究は制度からよく考慮する1つの模範となる事例であった。岸辺成雄の書巻末に引用・参考文から見て、黄現璠先生の『唐代社会概略』は社会制度に対する探求成果を岸辺成雄の唐代音楽史研究の基礎となった。」[13]
1936年10月に出版された黄現璠の『宋代太学生救国運動』(商務印書館)は、中国人による最初の学生運動史研究に関する専門論著であった。20世紀50-60年代に、台湾学者李敖は「台北文星出版社」を主宰した時期に、2度は再び黄現璠の『宋代太学生救国運動』を出版し、[14]2度もこの本とベーコンの『新しいツール』、ラッセルの『哲学中の科学的な方法』、デューイの『哲学改造』(胡適などの訳本)、ルーベンの『新しい歴史学』、ナポレオンの『ナポレオンの日記』、ガンジーの『ガンジー自序』、服部宇之吉の『儒教と近代的な思潮』、王夫之の『宋論』、王国維の『宋元演劇史』、黄侃の『文心雕竜読書メモ』などいっしょに「近現代世界学術精典100冊シリーズ」の1つとした。中国現代学者は黄現璠の『宋代太学生救国運動』を「民国叢書精典」第5集の1種に収入した。これよりこの本がきわめて高い学術の価値を持つことにわかる。
20世紀40年代に、黄現璠が数々の社会生活史に関する論文を発表した。このために、黄現璠は中国歴史学界における現代的な社会生活史研究の先駆者のひとりと見なされた。
1957年6月に出版された黄現璠の『広西チワン族略史』(広西人民出版社)は、中国チワン族史研究に関する最初の専門書であった。このために、黄現璠は中国民族学におけるチワン族史学の元祖と見なされた。その本の評価について、米国オハイオ州大学のマーク・ベンダー教授が語るところによると、黄現璠は「実際に数々の調査で獲得した口述資料と歴史文献を有機的に結合し、客観的に自分の民族の最初の歴史書を書き出し、画期的な意義を持つことと言える。」[15]日本国立民族学博物館の塚田誠之教授が語るところによると、「『広西チワン族略史』はチワン学研究において、歴史的重大な意義を持つものであった。」[16]『広西チワン族略史』は[1番早くて中国チワン族史研究に関する全面的で、系統的な紹介と研究の最初の専門書であった。][17]それは、まだ周恩来の関心と激励のもとで完成した歴史著作であった。[18]
1983年10月に出版された黄現璠の遺著『儂智高』(広西人民出版社)は、中国の儂智高に関する最初の専門書あった。その本の評価について、まさに広西チワン族自治区政府元主席韋鈍束およびいくつか学者がいったとおり、「『儂智高』は中国チワン族歴史人物に関する最初の専門書であった。ここから封建王朝が儂智高に歴史の汚名を押しつけたことを明らかにした。」[19]「当本は豊富な史料で広西歴史上の有名なチワン族人物儂智高及びその武装蜂起の問題に対して、透徹している論述と深く研究することを行って、儂智高及びその武装蜂起の性質と影響を科学的な評価した。」[20]
1988年11月に出版された黄現璠遺著の『チワン族通史』(広西民族出版社)は、中華民族史において最初のチワン族通史であった。その本の評価について、まさに広西チワン族自治区政府元主席覃応機およびいくつか学者がいったとおり、黄現璠遺著の『チワン族通史』は、「充実している史料を豊かにすることを証拠にして、詳しくチワン族の起源を論述し、全面的にチワン族のそれぞれの歴史時期の政治、経済、文化の諸方面の発展状況を紹介した。これは現在に私が知っている最初のチワン族通史である。」[21] 黄現璠の遺著『チワン族通史』は、「初めて創造的にチワン族研究を民族史論の高度まで(へ)昇格させた。」「それは構造、規模になってから高めることおよび十分に後の世まで伝わることができる大規模民族通史の創作先例を創始した。」[22]「それは中国の最初のチワン族通史である。当本は我が国の少数民族の歴史研究成果を豊かにして、チワン族史研究のために、比較的に新しくて全面的な資料をも提供した。」[23]「それは我が国の歴史学界におして、最もに創始性、科学性と学術的理論価値に備える経典の大作をおされた。」[24]米国オハイオ州大学のマーク・ベンダー教授が語るところによると、「黄現璠の『儂智高』と『チワン族通史』は、史料は豊かに、学術の価値もきわめて高くて、国際民族学において山開きをする著作であった。」[25]広西大学の徐君慧教授は「黄現璠先生の『広西チワン族略史』、『儂智高』と『チワン族通史』が、チワン族にとって文化の貴重な宝物だけではなくて、中華民族の貴重な宝物で、それらは光があたり一面に輝きチワン族と中華民族の歴史を照らしていた」と同様に評価した。[26]
ここから黄現璠はそれら論著によって、20世紀のチワン学研究にアカデミックな研究の気風を育て、大規模な調査資料を用いた新しい民族学研究の方法を開拓してチワン学研究の世界に定着させた。そこで黄現璠が中国民族学界の「チワン学の父」と尊称なされた。[27]この基礎の上で、「黄派」(Huang School或はHuang group)[28] と中華民族史における最初の少数民族学派――「八桂学派」(Bagui School)を徐々に形成されていった。このために、黄現璠が中国民族学界の「八桂学派」の創始者或は指導者になられた。[29]
1979年に、黄現璠は「中国民族歴史に奴隷社会がないことについて」という重要な論文を発表し、これをさらに発展させたのが、1981年に成った『中国歴史に奴隷社会がない論』であった。これは1957年に黄現璠で提唱した「奴隷社会跨越論」の継続であった。まさにアメリカ太平洋大学アジア研究センターのジェフリー・G・バロ歴史学教授、およびカリフォルニア大学歴史学教授ジョージ・V・H・モズレーは次々と指摘したとおり、「マルクスの著作に対する理解の混乱があってはっきりと説明できないため、この地区(チワン族地区)の伝統的な中国の解釈の観点は、依然として人びとに懐疑の意を示させた。伝統的な観点によれば、チワン族は宋代の前に奴隷社会に属し、そこで国家を創立することはあり得ない。黄現璠と国際史学界に公認されたチワン族歴史学者は、納得できる自説を展開しており、過去何回も詰問に遭った部分を雄弁に論証した。つまり、伝統的な観点(唯物史観の発展段階論)はチワン族社会を説明することに適しないのだ」[30] 「この観点のために、黄現璠は非難に何度も遭いた。」[31] 日本国立民族学博物館の塚田誠之(つかだしげゆき)教授は「黄現璠はチワン族社会の発展段階が氏族社会から直接に初期の封建社会に入り、転換の起点が唐宋の時代に始りと思った。それによって、古代チワン族社会性質をめぐる論争を巻き起こした。」[32]と同様に指摘した。つまり黄現璠は、マルクスの発展段階説が全人類史的=全世界史的に見た歴史であって、個々の地域や民族の歴史ではない。従ってヨーロッパ諸国でもそれぞれの国での歴史でも当てはまらず、ましてや中国古代史にも当てはまらない。奴隷社会とか、世界史に通じる用語がない。中国古代史の中に決して奴隷社会が存在しない。特に、マルクスの発展段階説が中国個々の地域史や民族史にそのまま当てはまらない、などと思った。[33]それによって、「黄現璠史観」を確立し、郭沫若の教条主義的な史観に向かって猛烈な批判を展開した。「黄現璠史学」は史料に基づく実証的なものため、これは「郭沫若史学」とある程度異なって、そこで黄現璠の「無奴論」と「奴隷社会跨越論」登場後、これらは、中国歴史学界の普遍的な反応を得た。広西民族大学の莫金山教授が語るところによると、「1979年に、黄現璠は『中国民族歴史に奴隷社会がないことについて』という重要な論文を発表したのちに、張広志、胡鍾達の両教授の熱烈な支持を得た。筆者の大まかな統計によれば、現在の中国史学界では発表したこの種類の文章はすでに百編近くなった。『中国民族歴史に奴隷社会がない』の支持者は日に日に増える各種の兆しがある」と表明した[34]。西安理工大学人文学院の王長坤、魯寛民、尹潔教授が語るところによると、「1979年に、黄現璠は『中国民族歴史に奴隷社会がないことについて』という重要な論文を発表した後に、張広志、胡鍾達、沈長雲など教授の熱烈な支持を得て、その上、支持者はだんだん多くなって、ここ数年来発表したこの種類の文章は百編すでに近くなった。現在には「無奴学派」の支持者はだんだん多くなるようで、1種の熱気あふれるような活況を呈している。それに対し、郭沫若を代表にした「有奴派」の追随者は決して多くなく、新味に乏しく、批判者の力強い挑戦を受けでいる」[35]。青海師範大学の元学長で教授の張広志が語るところによると、「文化大革命10年の時期に、林彪と4人組は毛沢東の名を借りて、郭沫若の中国古代社会発展段階説をただ尊重することに確約した。改革開放後の新しい時代の比較的な自由な学術環境の到来に従って、何人かの学者が根本的に再び中国古代社会発展段階説の問題を検討することに決心を促し、つまり、中国歴史は底に上がって1つ奴隷社会発展段階が存在したかどうか、もしその問題が根本に存在しないならばまた、そこに中国の奴隷制社会と封建社会の時代区分と制限問題を論争するのは、でたらめではないだろうか。改革開放新時期に、古代中国に奴隷社会の発展段階がないと主張している学者は黄現璠、張広志、胡鍾達、沈長雲、晁福林などである」[36]としており、さらに張は、「しかも、最初にこの史学ペナルティエリアを突き破りのは黄現璠先生であった」[37]と述べている。
上海復旦大学の陳淳教授は「1979年に、黄現璠は「中国民族歴史に奴隷社会がないことについて」という重要な論文を発表したの後に、引き続いて、張広志も1980年に「中国奴隷制度の歴史地位について」という論文を発表した。1982年まで着いて、だんだん多くなる学者は必ず奴隷社会の発展段階が決して人類歴史全体にあてはまる発展段階ではないことに傾いて、殷商は決して奴隷社会ではないことは中国歴史学界の共通認識になった」[38]と語っている。こうした基礎の上に、改革開放の新時代には中国歴史学界における「無奴学派」(略語「無奴派」)は徐々に形成されていった。このために、黄現璠が中国歴史学界の「無奴学派」(略語「無奴派」)(No-slave society School)の指導者になられた。後に中国歴史学界では、「無奴派」と「有奴派」に別れ激しい論争を戦わせることとなった。[39]
主要な著述と出版物 [編集]
通史 [編集]
『中国通史綱要』(上、中2冊は黄現璠から単独で完成し、下冊おりて、劉鏞で完成した。)(1932-1934)
『中国通史講稿』(1938)
『中国史講義』(1945)
『中国生活学——食衣住行通史』(三卷、1981)
『チワン族通史』(1988)
断代史 [編集]
『秦代通史』(1939)
『魏晋南北朝通史』(1940)
『魏晋南北朝隋唐五代史』(1941)
『隋唐五代史』(1948)
近代史 [編集]
『民国史断片』(1948年)
『旧民主主義革命史稿』(2巻組、1949)
『中国新民主主義革命史讲稿』(1950)
『右江ソビエト政権の創立』(1957)
専門史 [編集]
『高校外国史』(两册、1933)
『元代农民の生活——附奴隶考』(日本学者有高巌著、黄現璠訳、1934)
『唐代社会概略』(1936)
『宋代太学生救国運動』(1936)
『日本吸收中国文化史稿』(1942)
『中国文化史』(1943)
『中国殷代社会史』(1950)
『中国封建社会史』(1952)
『中国歴史名著選读』(1953)
『広西チワン族略史』(1957)
『中国歴史文選』(1962)
『漢族の形成』(1976)
『古书解读基础知识』(1978)
『儂智高』(1983)
『中国歴史に奴隷社会がない論』(1981)
学術論文集 [編集]
『古書解読初探——黄現璠学術論文精選』(2004)
学術評伝 [編集]
『韋抜群評伝』(2008)
一族 [編集]
妻劉麗華は、教師。
大娘黄小玲は、広西医学院教授。大娘婿侯德彭は、物理学教授(著述が豊富)、広西大学元総長、広西教育庁元庁長。
二娘黄文斐は、中国数学オリンピック高級な教学研究員(教授の職名に相当、著述が豊富)。二娘婿孔生は、大学教官。
三男甘金山は、広西師範大学客員教授。三男の妻・李明潔は、中国建筑の高級技師。
四娘黄文魁は、漓江出版社元編集長(教授の職名に相当)。四娘婿陳吉生は、桂林陸軍学院教授(軍級)。
六子甘文豪は、(オーストラリア籍中国系学者)。
七子甘文傑は、日本留学学者(留学期間12年の経歴を有する)。
黄現璠一族は、中国教育界に「教育名門」と称される。[40]
脚注 [編集]
^ 甘文傑「東洋史学と東京文献学派について」东洋史学与“东京文献学派”初探、2009年12月26日-中国知网(中国語)。
^ 第1期中国人民対外文化協会会長:楚図南、理事は茅盾、曹禺、老舎、夏衍、田漢、丁西林、郭沫若、趙朴初、馬寅初、黄現璠、馬思聡 、梅蘭芳、焦菊隠、周揚、範長江、銭偉長、華羅庚などがいる。
^ 『人民日報』、1958年2月2日第1版。
^ 第1期「中国民族学研究会」の顧問は呉沢霖、黄現璠、李安宅、楊堃、呉文藻、劉咸、楊成志、方国瑜、江応梁、費孝通、李有義がいる――おのおの誕生によって年いずれ順調な位に並び。
^ 梁黎:「人類学と民族学研究は中華人民共和国における民族識別工作に対する貢献について」、『中国民族』2008(5)。
^ 黄現璠:『韋抜群評伝』梁成業の序文より、広西師範大学出版社、2008年9月に初版。
^ 陳吉生:「为学貴自辟——広西学術の泰斗黄現璠を思い出し」、『肝胆相照』232-271、 桂林市政治協商会議文史資料委員会編印、2007年12月。
^ 黄現璠、陶希聖:「北宋亡後に北方の義兵」、『古書解読初探--黄現璠学術論文精選』(陶希聖の編者話より)、広西師範大学出版社、2004年7月に初版。
^ 黄現璠:『唐代社会概略』の陶希聖の序文より、商務印書館、1937年2月に再版。
^ 陳吉生:「チワン族名史家黄現璠が20世紀の中国新しい歴史学の実践と建設に対する貢献を論じ」、『広西民族研究』2007(1)。
^ 劉玉峰:「20世紀初期に唐代経済史研究を振りかえことについて」、『思想戦線』2008(4)。
^ 龚鵬程:「中国伝統社会の中の文人階層について」、台湾『淡江人文社会学刊の50周年学校創立記念の特別号』、2000。
^ 项陽:「制度と伝統音楽文化の関係について——兼ねて中国古代音楽史の研究論」(三)、『音楽研究』2004(1)。
^ 黄現璠:『宋代太学生救国運動』、台北文星出版社、1956年に初版、1965年に再版。
^ 黄現璠『古書解読初探--黄現璠学術論文精選』(マーク・ベンダーの序文より)、広西師範大学出版社、2004年7月に初版。
^ 黄現璠:『古書解読初探——黄現璠学術論文精選』(塚田誠之の序文より)、広西師範大学出版社、2004年7月に初版。
^ チワン族百科辞典編纂委員会:『チワン族百科辞典』127ページ、広西人民出版社、1993年。
^ 黄任莹:『周恩来と広西チワン族略史のストーリ』、『南国朝刊新聞』1998年12月11日より。
^ 黄現璠:『古書解読初探——黄現璠学術論文精選』(韋鈍束の序文より)、広西師範大学出版社、2004年7月に初版。
^ 『民族文献要点』627ページ、雲南教育出版社、1991年。
^ 黄現璠、黄増慶、張一民:『チワン族通史』(覃応機の序文より)、広西民族出版社、1988年11月に初版。
^ 潘栄才:「学問が代々受け継がれ 功徳が非常に大きい——黄現璠教授生誕百年記念」、『広西師範大学学報』1999(4)。
^ 『民族文献要点』627ページ、雲南教育出版社、1991年。
^ 沈豊明:『歴史文化界の有名人が桂林にある・絵集』627ページ、新世紀の出版社、2005年。
^ 黄現璠:『古書解読初探——黄現璠学術論文精選』(マーク・ベンダーの序文より)、広西師範大学出版社、2004年7月に初版。
^ 徐君慧:「風格はとこしえに生きて——黄現璠教授生誕百年記念」、『広西文史』1999(2)。
^ 『広西民族研究』編集部:「チワン学を開拓し 誠実の献上——黄現璠教授生誕百年記念」、『広西民族研究』1999(4)、莫君:「チワン学の父」、『広西日刊新聞』、2002年9月3日。
^ 黄派とは、創始者とされる黄現璠および彼に師事した民族学者、歴史学者、人類学者、考古学者、言語学者と文学者たちが形成した八桂学派の支流のことを指す。「黄派」成員は、「八桂学派」の開拓者とする黄現璠と「門下の十八大人(うし)」を含んで、つまり黄現璠の学生或は門弟であって、全部で黄増慶、張一民、粟冠昌、周宗賢、李乾芬、黎国軸、覃樹冠、蕭沢昌、黄偉城、欧陽若修、周作秋、黄紹清、何龙群(女)、玉時階、龔永輝、覃徳清、周作明、何英德などの18人がある。彼らは、全て中華人民共和国の成立後に広西の先輩教授、研究員或は学科のリーダーである。黄派の多くのメンバーは、黄現璠に直接師事し、彼から多くの影響を受けていることは、特筆すべきだろう。
^ 陳吉生:「中国民族学の八桂学派について」、『広西社会科学』、2008(7-11)。
^ ジェフリー・G・バロ:「宋代のは中国とベトナム国境の少数民族――チワン族」、『東南アジア縦横』1989(1)。
^ ジョージ・V・H・モズレー:『中国南方国境の強固さ』88ページ、カリフォルニア大学出版社、1973年。
^ 塚田誠之(著),甘文傑(訳):「新中国創立の前後でチワン族論著の比較研究」、『広西民族研究』2005(3)。
^ 黄現璠:「中国民族歴史に奴隷社会がないことについて」、『広西師範学院学報』1979(2、3)。黄現璠:『中国歴史に奴隷社会がない論』、広西師範学院、1981年。
^ 莫金山「中国の奴隷制度問題の議論に関する世紀末振り返って見て」、『学術研究』第7号、1996。
^ 王長坤、魯寛民、尹潔「中国古代社会性質問題に関する研究概要」、『唐都学刊』第3号、2005。
^ 張広志「中国古史分期に関する70年討論」上、『文史知識』第10号2005。
^ 張広志『中国古史分期討論に関する回顧と再考』、陝西師範大学出版社、2003、240頁。
^ 陳淳「社会進化モードと中国の初期国家の社会性質について」、『復旦学報』第6号、2006。
^ 陳吉生:「チワン族の有名な歴史学者黄現璠が20世紀の中国新しい歴史学の実践と建設に対する貢献について」、『広西民族研究』2007(1)。
^ 鄧炳荧:「毋用扬鞭自奋蹄」、『師範エリートたち 中華を輝かせて』14巻の20-26ページ、陝西人民教育出版社、1994年。
参考文献 [編集]
日本外交部アジア局监修、霞山会編:『现代中国人名辞典』1966年版の327ページ、1972年版の325ページ、1982年版の318ページ、1986年版の588ページ、財団法人霞山会。
『中国人名大辞書』編集委員会編:『中国人名大辞書』ページ、上海辞書出版社、1992年。
『中华当代文化名人大辞典』編集委員会編:『中华当代文化名人大辞典』519ページ、中国広播電視出版社、1992年。
中国『教育大辞典』編集委員会編:『教育大辞典』(上册)1450ページ、上海教育出版社、1998年。
《中国少数民族文化大辞典》(中南、东南地区卷)、143-144ページ、民族出版社、1999年。
『広西古今教育人物』270ページ、 広西チワン族自治区教育厅编印、2001年 。
関連項目 [編集]
陳垣
錢玄同
陶希聖
郭沫若
費孝通
白鳥庫吉
津田左右吉
原田淑人
池内宏
加藤繁
和田清
後藤朝太郎
岸辺成雄
外部リンク [編集]
ウィキメディア・コモンズには、黄現ハンに関連するメディアがあります。
英語:Chinese Anthropologists: Huang Xianfan(『中国人類学家:黄現璠』)
中国語:中国近代民族学の創設者のひとり-黄現璠
中国語:マスターチャンネル
中国語:マスタートレース
英語:Modern Chinese Historians(『現代中国歴史学家』):Huang Xianfan「黄現璠」、Guo Moruo「郭沫若」、Ji Xianlin「季羡林」、Chen Yinke「陈寅恪」……
西班牙语:Escritores en chino(『中国的作家』):Lao-Tsé「老子」, Dong Zhongshu「董仲舒」, Cao Cao「曹操」, Huang Xianfan「黄現璠」, Cao Yu「曹禺」, Liu Xiaobo「刘晓波」, Mozi「墨子」, Ba Jin「巴金」, Zhuangzi「庄子」, Li Bai「李白」, Shen Congwen「沈从文」
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84% ... F%E3%83%B3